「白に白」


「白に白」 文章で見れば、よく見えないことになってしまう。

ところが私には、これがことのほかよく見える。

とにかく美しいのだ。昔、版画のテクニックで多用した。

白い紙といっても、同じ白などひとつとしてない。

白い紙は紙質によって色が微妙に違う。

これを利用して深みのある(オフホワイト)紙の上に、

真っ白で線なり円なりを描くとけっこう目立つ。

私の得意技であった。


ある日、有名な友人のグラフィックデザイナーA氏が我が家に来た。

「お前の絵はよく見えない!」と彼は言った。 ーto be continuedー


高柳








一筆書き その2(頭をなるべく使わずに描く)


私は絵を描くとき、何を描くか決めることがあまりない。

つまりモチーフの消滅というか、消失というか、これは私だけの問題である。

版画制作のときはそんなことはない。出来ない。

しかし水彩だのガッシュだの手描きのときはそれが起こる。

そこで、描くのが便利でとりとめなく手が動き、何やら「心」がハッとする一筆描きが登場する。


油絵画家の中に「捨て絵具」ということをする人がいる。私もよく昔やったことがある。

白いキャンバスに向かうとプレッシャーのあまり手が動かなくなる。それを取り除くため

純白のキャンバスに余った絵の具などこすりつけて、故意に汚すのである。

すると「古キャン(使い古したキャンバス)」になる。だから安心して手が動く。

なんだか情けないような技法ではあるが、「安心」は大切である。


さて、安心から出発したものの、やがて行き詰まり「心配」になる。

安心と心配の繰り返しが私の技法である。


高柳








一筆書き simple stroke


一筆「描き」と書くべきか、いや、まだ描かれていないから「書く」かな。

しかし、いずれ絵になるのだから「描く」でいいか。などと複雑に考えてしまう。

いや今日は複雑ではいけないのだ、シンプルなのだ。シンプル イズ ザ ベストである。


私はこのところ、この一筆描きに凝っている。

出発点を決めるだけ、あとは腕を動かし、気ままに鉛筆をすべらせ、大体この辺り

という所まできたら終点とする。

出来上がると、すべて画面上の絵は一本の線で結ばれている、というわけである。

説明が遅れたが、一気呵成に描く絵のことではない。ゆっくりでも線がどこまでも続く。

線路は続くどこまでも、ではないが、”迷路のように続いている絵”のことなのである。


高柳











脳(ブレイン)のかたち


私の脳のことである。

ハート型に右と左に分かれている。

誰でもそうだと言われるかもしれないが、前後より左右が際立っている。

したがって、ハートの絵を描いたように左右の山がはっきりと分かる。

たまに自分の頭を触ってみると「地球の人」のような気がしない。

人類の平均を少し外れている。

最近右脳だの左脳だのとよく聞くことがあるが、それは思考のことで形のことではない。

またつくづく触れてみると蝶が羽を広げたように固まっている。

直上ではないのである。ちょっとブレている。  ブレインである。

だからといって、羽ばたくことはない。


高柳










傘傾げ(かさかしげ)


「傘傾げ」 美しいこの言葉は今や死語?

知らない人も年々増えている、と思う。なぜなら

雨の日に細い道をすれ違う時 相手方外側に傘をかしげる、これがルールである。

江戸時代の浮世絵を見ても上手に表現されている。

ところが今日、これをやらない、やれない大人、若者が増えている。

突入型である。傘も壊れよ、とばかり突進してくる。

もうこの世も終わりだと思わせる。

あの日本の伝統美はどこへ行ったのだろう?

私は首をひねるばかりで 「首傾げ」 である。



高柳







赤唐辛子


お土産に頂いた赤唐辛子は、めざしのように10個連なっていた。

一句 思い付いた

春来たりなば 夏 唐(10)辛子


高柳






お絵描きを楽しもう!


「お絵描きを楽しもう!」 よくある宣伝文句。

これから絵でも描いてみようとするアマチュア相手の言葉(キャッチフレーズ)である。

だが、”楽しむ” には心の準備というか、「よし、やるぞ!」という勇気が必要である。

そこで考えるに、心の準備というプレッシャーが働いていることに気づく。

その先に見えるのは、絵をどういう風に描き進めていくかというプレッシャー、

もし上手くいかなかったらというプレッシャー、私には才能があるのかしら?

(ほんの少しでも)というプレッシャー。

様々なプレッシャーが最初は軽く、だんだん巨大に重くのしかかってくる。

そして「あー、これは大変、もうやめた!」となるのである。


そこで教える側としては「お絵描きなんてこわくない!」というキャッチでせまる。

そもそも「絵」とはなんぞや?そして上手下手とは?奇麗とは?

人々に古くから、昔から自然に身についてしまったしきたりや概念をどう取り除くかを

考えてみようと思う。

これから少し長くなるので続きは次回に!


高柳







意地悪


最近私の脳はよく意地悪をする。

年のせい、とよく人は言うが、どうなのか。

「ものわすれ」の話である。


一たん脳が意地悪を始めると Oh!No! お手上げである。

思い出そうとすればするほど意地悪く沈黙する。暗闇である。

それでも絞り出そうと努力すると更に沈黙を続け、たちが悪い。

「沈黙は金」はウソである。

いっそのこと、全部忘れてしまうとどうなるのか・・・

新しい新鮮な情報がどんどん入ってきて、新しい手帳を買った時のように

希望に溢れるのではないか・・・

しかし新情報満載といっても、新しいことを記憶しなければならない。

これもチョット、と思ってしまう。そうこうするうちにまた忘れる。

昔、映画で忘却とは忘れ去ることなり、と言っていた。

こんなことを思い出してしまった。

自分の脳とつき合うのも大変である。


高柳








昔の気持ち


私は今は版画家である。版画の特性は、手直しが出来ないことである。

「結果」を綿密に計算し、刷り上がったら終わり。一発勝負なのである。

しかし数十年こればかりやっていると、時々昔の「くせ」が甦ってくる。

その「くせ」というのが「手直し」だ。


版画は別にして油絵や水彩、ガッシュは、ある程度自由に手直し出来る。

それも、あらんことに学生時代に描いたものまでひっぱり出し、50年以上前の

気持ちになり、なりきり(これがまた難しいのだが)こっそり手を入れてしまうのである。

今日までおびただしい数の未生成作品をながめ、これではいけない、こんなものが

後世に残ってはいけない、恥ずかしい、等の気持ちで(いやこれは言い訳であるが)

ながめていると「悪魔のささやき」につられ衝動的に手を入れてしまう。

もちろん手を入れる時は注意深く、この絵は19〇〇年だからこんな考えで、

こんな状況だったからこのくらいでいいだろう。などと自分で判断して手入れをする。

手入れがうまくいった時は、多少の罪悪感と共にほっとする。

しかし、いつもいつも上手くいくとはかぎらない。

ときに描けども直せどもどんどん絵は変わり、本絵の痕跡さえも消滅してしまう。

かくして一点、また一点と昔の絵がなくなる。

こうなると、古い昔の絵に新しく違う絵を描いたことと同じになる。

そこで反省する。だったら「昔の気持ち」になる必要などさらさらないではないか!

「手直し自由」にはこんな恐ろしい罠が潜んでいた。

もう二度と手入れはしないぞ!かたく自分に誓った。

そのとたん、また悪魔がささやいた気がした。


高柳










高柳裕展 ~青梅美術館~

高柳裕展のお知らせです!

2017年11月18日土~2018年1月14日(日)までの2か月間
ー祝喜寿ー高柳裕展が開催されます。

~青梅市立美術館パンフレットより抜粋~

青梅➂
青梅文字②

青梅①

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