ブログ


ブログを勧められて、一年ほど経っただろうか・・

時々しか書かないものの、続けることは結構大変なことである。

小説家になろうと思った時もあったが、やっぱり大変だと思う。

エッセイストになろうと思ったが、やっぱり・・・だんだんと短い文になってしまう。

もともと短文を得意と自負していたが、最近その自信もしぼみ、もうこうなったら

短歌、いやもっと短く俳句かな。

そこで一句読んでみたら、それは川柳だと言われた。


高柳






花を描く


カルチャーセンターで油絵の講師をしていたころ、花をよく描かせていた。

手っ取り早いモチーフなのである。

受講生の方も、花を出されて文句を言う人はいない。

ところで、私は花が苦手である。

今まで何十年の間、「花」をまともに描いたことはほとんどない。

桜が美しいと思ったこともない。甚だ怪しい先生なのである。

日本画、洋画の大家も花のモチーフは多い。

花は美しいもの、と決めているがごとくに描いている。

ところがある日、ポール・クレーのレゾネ(全作品目録)を見ていてびっくりした。

たくさんの花が登場している。しかし「花」には見えない不思議な「花」ばかりである。

ほとんど図形化された花、図法の花、論理の花なのだ。

今まで花嫌いな私が見ていた花はいったい何だったのか・・・

以来、私は花の見方が一変した。今ではどんな花も不思議に魅力的に思えてくる。

昔の花はもうどこかに行ってしまった。一体どこへ行ってしまったのだろう・・・

ジョン・バエズの歌(「花はどこへ行った」)が聞こえてくるようだ。



高柳











かくし味芸術 ~「白に白」 その2~


久々のブログである。

友人に「お前の絵はよく見えない!」と言われた。ショックは無い。

この人は「もう一方の人」と思った。

「白に白」が見える人と、「白に白」は見えない人と、2種類の人がいる。

友人は見えないタイプであると思った。でも本当に視力が無いわけではない。

「もの」を見る時、コントラストの強いものを好むのである。

つまり、遠くからもハッキリ見えることが大事だと思っているタイプ。

「白に白」が見える人は、遠くからは見えないが、近くでよく見ると実に美しく

見えるタイプ。

「白に白」は料理で言うなら「かくし味」に似ている。

この「かくし味」が分かる人は意外に少ない。

むろん、メインがドーンと美味しく、さらにかくし味が効いているということが大事

ではあるのだが・・・

ー後日談ー

その後、惜しくも世を去った友人は、当時から片眼の視力がほとんどなく、

ものが見えづらかったようである・・・


高柳









一筆書き その2(頭をなるべく使わずに描く)


私は絵を描くとき、何を描くか決めることがあまりない。

つまりモチーフの消滅というか、消失というか、これは私だけの問題である。

版画制作のときはそんなことはない。出来ない。

しかし水彩だのガッシュだの手描きのときはそれが起こる。

そこで、描くのが便利でとりとめなく手が動き、何やら「心」がハッとする一筆描きが登場する。


油絵画家の中に「捨て絵具」ということをする人がいる。私もよく昔やったことがある。

白いキャンバスに向かうとプレッシャーのあまり手が動かなくなる。それを取り除くため

純白のキャンバスに余った絵の具などこすりつけて、故意に汚すのである。

すると「古キャン(使い古したキャンバス)」になる。だから安心して手が動く。

なんだか情けないような技法ではあるが、「安心」は大切である。


さて、安心から出発したものの、やがて行き詰まり「心配」になる。

安心と心配の繰り返しが私の技法である。


高柳








一筆書き simple stroke


一筆「描き」と書くべきか、いや、まだ描かれていないから「書く」かな。

しかし、いずれ絵になるのだから「描く」でいいか。などと複雑に考えてしまう。

いや今日は複雑ではいけないのだ、シンプルなのだ。シンプル イズ ザ ベストである。


私はこのところ、この一筆描きに凝っている。

出発点を決めるだけ、あとは腕を動かし、気ままに鉛筆をすべらせ、大体この辺り

という所まできたら終点とする。

出来上がると、すべて画面上の絵は一本の線で結ばれている、というわけである。

説明が遅れたが、一気呵成に描く絵のことではない。ゆっくりでも線がどこまでも続く。

線路は続くどこまでも、ではないが、”迷路のように続いている絵”のことなのである。


高柳











傘傾げ(かさかしげ)


「傘傾げ」 美しいこの言葉は今や死語?

知らない人も年々増えている、と思う。なぜなら

雨の日に細い道をすれ違う時 相手方外側に傘をかしげる、これがルールである。

江戸時代の浮世絵を見ても上手に表現されている。

ところが今日、これをやらない、やれない大人、若者が増えている。

突入型である。傘も壊れよ、とばかり突進してくる。

もうこの世も終わりだと思わせる。

あの日本の伝統美はどこへ行ったのだろう?

私は首をひねるばかりで 「首傾げ」 である。



高柳







赤唐辛子


お土産に頂いた赤唐辛子は、めざしのように10個連なっていた。

一句 思い付いた

春来たりなば 夏 唐(10)辛子


高柳






お絵描きを楽しもう!


「お絵描きを楽しもう!」 よくある宣伝文句。

これから絵でも描いてみようとするアマチュア相手の言葉(キャッチフレーズ)である。

だが、”楽しむ” には心の準備というか、「よし、やるぞ!」という勇気が必要である。

そこで考えるに、心の準備というプレッシャーが働いていることに気づく。

その先に見えるのは、絵をどういう風に描き進めていくかというプレッシャー、

もし上手くいかなかったらというプレッシャー、私には才能があるのかしら?

(ほんの少しでも)というプレッシャー。

様々なプレッシャーが最初は軽く、だんだん巨大に重くのしかかってくる。

そして「あー、これは大変、もうやめた!」となるのである。


そこで教える側としては「お絵描きなんてこわくない!」というキャッチでせまる。

そもそも「絵」とはなんぞや?そして上手下手とは?奇麗とは?

人々に古くから、昔から自然に身についてしまったしきたりや概念をどう取り除くかを

考えてみようと思う。

これから少し長くなるので続きは次回に!


高柳







意地悪


最近私の脳はよく意地悪をする。

年のせい、とよく人は言うが、どうなのか。

「ものわすれ」の話である。


一たん脳が意地悪を始めると Oh!No! お手上げである。

思い出そうとすればするほど意地悪く沈黙する。暗闇である。

それでも絞り出そうと努力すると更に沈黙を続け、たちが悪い。

「沈黙は金」はウソである。

いっそのこと、全部忘れてしまうとどうなるのか・・・

新しい新鮮な情報がどんどん入ってきて、新しい手帳を買った時のように

希望に溢れるのではないか・・・

しかし新情報満載といっても、新しいことを記憶しなければならない。

これもチョット、と思ってしまう。そうこうするうちにまた忘れる。

昔、映画で忘却とは忘れ去ることなり、と言っていた。

こんなことを思い出してしまった。

自分の脳とつき合うのも大変である。


高柳








昔の気持ち


私は今は版画家である。版画の特性は、手直しが出来ないことである。

「結果」を綿密に計算し、刷り上がったら終わり。一発勝負なのである。

しかし数十年こればかりやっていると、時々昔の「くせ」が甦ってくる。

その「くせ」というのが「手直し」だ。


版画は別にして油絵や水彩、ガッシュは、ある程度自由に手直し出来る。

それも、あらんことに学生時代に描いたものまでひっぱり出し、50年以上前の

気持ちになり、なりきり(これがまた難しいのだが)こっそり手を入れてしまうのである。

今日までおびただしい数の未生成作品をながめ、これではいけない、こんなものが

後世に残ってはいけない、恥ずかしい、等の気持ちで(いやこれは言い訳であるが)

ながめていると「悪魔のささやき」につられ衝動的に手を入れてしまう。

もちろん手を入れる時は注意深く、この絵は19〇〇年だからこんな考えで、

こんな状況だったからこのくらいでいいだろう。などと自分で判断して手入れをする。

手入れがうまくいった時は、多少の罪悪感と共にほっとする。

しかし、いつもいつも上手くいくとはかぎらない。

ときに描けども直せどもどんどん絵は変わり、本絵の痕跡さえも消滅してしまう。

かくして一点、また一点と昔の絵がなくなる。

こうなると、古い昔の絵に新しく違う絵を描いたことと同じになる。

そこで反省する。だったら「昔の気持ち」になる必要などさらさらないではないか!

「手直し自由」にはこんな恐ろしい罠が潜んでいた。

もう二度と手入れはしないぞ!かたく自分に誓った。

そのとたん、また悪魔がささやいた気がした。


高柳










プロフィール

版画家高柳とエクレア

Author:版画家高柳とエクレア
高柳裕の制作日記と最新情報をお届けします。

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