意地悪


最近私の脳はよく意地悪をする。

年のせい、とよく人は言うが、どうなのか。

「ものわすれ」の話である。


一たん脳が意地悪を始めると Oh!No! お手上げである。

思い出そうとすればするほど意地悪く沈黙する。暗闇である。

それでも絞り出そうと努力すると更に沈黙を続け、たちが悪い。

「沈黙は金」はウソである。

いっそのこと、全部忘れてしまうとどうなるのか・・・

新しい新鮮な情報がどんどん入ってきて、新しい手帳を買った時のように

希望に溢れるのではないか・・・

しかし新情報満載といっても、新しいことを記憶しなければならない。

これもチョット、と思ってしまう。そうこうするうちにまた忘れる。

昔、映画で忘却とは忘れ去ることなり、と言っていた。

こんなことを思い出してしまった。

自分の脳とつき合うのも大変である。


高柳








昔の気持ち


私は今は版画家である。版画の特性は、手直しが出来ないことである。

「結果」を綿密に計算し、刷り上がったら終わり。一発勝負なのである。

しかし数十年こればかりやっていると、時々昔の「くせ」が甦ってくる。

その「くせ」というのが「手直し」だ。


版画は別にして油絵や水彩、ガッシュは、ある程度自由に手直し出来る。

それも、あらんことに学生時代に描いたものまでひっぱり出し、50年以上前の

気持ちになり、なりきり(これがまた難しいのだが)こっそり手を入れてしまうのである。

今日までおびただしい数の未生成作品をながめ、これではいけない、こんなものが

後世に残ってはいけない、恥ずかしい、等の気持ちで(いやこれは言い訳であるが)

ながめていると「悪魔のささやき」につられ衝動的に手を入れてしまう。

もちろん手を入れる時は注意深く、この絵は19〇〇年だからこんな考えで、

こんな状況だったからこのくらいでいいだろう。などと自分で判断して手入れをする。

手入れがうまくいった時は、多少の罪悪感と共にほっとする。

しかし、いつもいつも上手くいくとはかぎらない。

ときに描けども直せどもどんどん絵は変わり、本絵の痕跡さえも消滅してしまう。

かくして一点、また一点と昔の絵がなくなる。

こうなると、古い昔の絵に新しく違う絵を描いたことと同じになる。

そこで反省する。だったら「昔の気持ち」になる必要などさらさらないではないか!

「手直し自由」にはこんな恐ろしい罠が潜んでいた。

もう二度と手入れはしないぞ!かたく自分に誓った。

そのとたん、また悪魔がささやいた気がした。


高柳










高柳裕展 ~青梅美術館~

高柳裕展のお知らせです!

2017年11月18日土~2018年1月14日(日)までの2か月間
ー祝喜寿ー高柳裕展が開催されます。

~青梅市立美術館パンフレットより抜粋~

青梅➂
青梅文字②

青梅①

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かげ


絵を描いていると、「かげ」の大切さに気付くものである。

「かげ」を描くことにより、より立体的に見えたりするわけであるから

その見極めは重要であるのは言うまでもない。

ところで、少し勉強していると「かげ」には2種類あることに気が付く。

「陰」と「影」である。英語で言えば「shade」と「shadow」。

この差について、電子辞書では「微妙な差異」などどいっているがチョット違う。


「この絵は陰影に乏しい」とはよく聞く言葉だが、この場合は

はっきりしない、とかメリハリがない時に使う言葉である。

私が言うのは、そういうあいまいな意味ではない。


”影踏み”という遊びを思い出してもらいたい。

あの影はいくら踏まれても痛くない「かげ(shadow)」で、実体がない。

ところが”ランプシェイド”とか”山陰”などの「かげ(shade)」の方は実体があるし、

たまたま光と反対側にあったり、覆ったりしているだけで、触れば実体に触れている

わけである。従って「陰影に乏しい」というと、「陰も影もほとんど描いていない絵」

ということになる。

ぼんやりしている、というよりはデザイン的に明るい絵か、丸みや遠近感がない、

足りない絵、ということになりはしないか?と理屈をこねてみた。


「かげ」という言葉は奥が深く、谷崎文学にも「陰翳礼賛」などがあり、いろいろ

考えさせられる。

おかげさまで。




高柳











夢 dream


睡眠中見る夢と、現実生活の中で見る想像の夢がある。

宝くじ(ドリームジャンボ)等もその一つ。

睡眠中に楽しい夢を見るのはいいことだ。

正夢などといいように採れば良いのだが、悪夢などは歓迎したくない。

さて、この「夢」の字であるが、あろうことか私は長い間この漢字を間違えて

憶えていた。


草冠の下は「四」であるのが正しいが、下の「一」が抜けていたのだ。

「夢」は草冠がついているから、昔は草原で寝転んで夢うつつだったのだろう。

草冠の下の「四」は枕なのかもしれない。それが「四」の下の「一」が抜けていては

安定しない。どうも夢見の悪い日が多かったのはそのせいかもしれない。

良い夢を見るためにも、正しい字を覚えよう。



高柳







ワラカラ


ブログのテーマで悩んでいる。いや悩んではいないが、チョット困っている。

泉のごとく湧き上がってこないのだ。


泉と言えば「水」。水は今日ではコンビニで売っているが、半世紀前では

水を買うなどということは考えられないことであった。

50年以上前になるが、芸大の学生だった頃黒人の留学生が教室に見学に来て

100号の油絵を見て「ワラカラ!」と叫んだ。仲間は皆ポカンとしている。

彼はなおも絵を指さして「ワラカラ、ワラカラ!」と叫んでいる。

勇気ある仲間の一人は「What color」のことだと思い、ブラックとかグリンブラック

とか答えたが、ワラカラは止まらない。その時は皆笑いでごまかし、その場をしのいだ。


時は過ぎ、数年後アメリカから来た留学生に日本の街を案内していた時、

彼は「笑・笑」の看板を指して、あれは何だ?と私に尋ねた。

「ワラワラ」と言うんだよ、と私は答えた。

それはアメリカでは「水、水」と言うんだ、と留学生。


私はその瞬間、あの時を思い出した。

そうか、あの時の黒人留学生の「ワラカラ」は、

「これはWater color(水彩絵の具)ですか?」と尋ねたのだ!


私達は、笑笑と笑った。



高柳








「二番手」はいい


昔から私は「一番」が嫌いだった。一番になったらどうしようと思うと

緊張してしまう。いや、し過ぎてしまうのだと思う。


一番になると注目を浴びる。褒められる。質問に答えなくてはならないし、

今度一番でなかったらどうしよう、など夜も眠れないと思ってしまう。

そこへいくと二番はいい。安心して落ち着いていられる。

次に一番になるかもしれないし、また二番でも誰も文句は言わない。

注目度が丁度いい。だから二番にかぎる。


褒めかたもゆるゆるである。英語で「almost」なのだ。

「もうチョイですね」 とか 「今度ですね」 とか肩がこらないのである。

そう、やっぱり二番、二番がいいのだ!



高柳








続・文の書き方 「起承転結」


文には「起承転結」が必要と教えられた。

はじめに自分の言いたいこと=意を「起」こし、「承」でそれを受け、

「転」で変化をつけて発展させ、「結」で全体を締めくくるという。


私流に理解すれば、最初に文の「落ち」を考え、それをすぐには言わない、

書かない。次にさりげなく文を綴って読者を外の路線にのせ、しばらく

普通に歩ませ、頃合いをみて落とす。

何のことはない、落語の手法である。


悲劇はたまに起こる。

努力の甲斐なく転ばない、落ちないときは

え~ お粗末! お次がよろしいようで。


高柳







文の書き方


ブログの文とは言っても、文章である。したがって何とか読んでもらいたい
気持ちが働く。人情であろう。

・名人の文は、まず簡潔である
・切り口のスキルがユニーク
・リズム、広がり、ユーモアがある

したがって飽きさせないで読ませる。
こう書くと、絵画を制作するのとよく似ている。

これだけ分かっていればさぞ良い文章が生まれるであろう。
そう思った時、一つ忘れていた。

エネルギーである。
今日は使い果たしてしまった。


高柳







絶滅危惧種 Endengered


昆虫や動物によく使われる言葉である。

昔の外国映画、たしか「チャタレー夫人」 だったと思うが、男女が野原で

休息している場面、二人の目の前をサッと飛び去った蝶を男性が

「Endengerd ・・・」  とポツリと言ったのが印象的だった。

この一言、今日の地球に当てはめてみるとなんとも恐ろしい。

地球温暖化。パブリックハザードと呼ばれる水や空気の汚染。

今に始まった事ではないが、もう終局を迎えている気がする。

今 「Endengerd」の言葉は人類にも、いや人類にこそ必要なのではと思う。


が、悲観に暮れてばかりもいられない。

映画に戻るが、そこでチャタレー夫人は輝くような笑顔で男性を見つめていた。

「世界の幸せは、今、ここにしかないの!」 と言った眼であった。    -FIN-



高柳